ホーム / CCBTの活動 / 市原えつこ✕原田裕規「私は『私自身』から逃れられない  」

2024年度 CCBTアーティスト・フェローである市原えつこは「ディストピア」を予知し思い描く行為の逆説的な前向きさに着目し、市民とともに虚実が入り混じる未来像を構築するプロジェクト「ディストピア・ランド」を展開しています。ここでは、市原が制作におけるリサーチの一環として行った、文化人類学者・福島真人氏、アーティスト・原田裕規氏、再生医療研究者・三嶋雄太氏へのインタビューの様子をシリーズで公開します。
シリーズ2本目となる本インタビューでは、アーティストである原田氏に「歴史の歩みから見出す人間の本性」について伺いました。

「ラッセン展」や「心霊写真展」などの企画で注目を集めて以来、社会の中で広く知られる視覚文化を題材とする作品制作を続けてきたアーティストの原田裕規さん。近年は、ご自身の出身地である広島や山口からハワイに渡った移民をテーマとした作品の制作などにも取り組み、広島市現代美術館で開催した大規模個展『原田裕規:ホーム・ポート』でもこれらを見ることができました。
ハワイに渡った多くの日本人の出身地である周防大島に母方のルーツがある市原さんが、厳しい環境下で自分たちの社会や文化を形成していったハワイ移民の方たちの歩みから、現在構想中の「ディストピア・ランド」で描こうとしている人間の本質に迫るべく、原田さんにお話を聞きました。

1. ハワイに渡った日本人たちの歩み  

市原:今回お話を伺うにあたって、2023年に周防大島の日本ハワイ移民資料館で行われた原田さんの個展の情報を改めて見返していたのですが、その中で「ハワイへ渡り、困難を乗り越えて現地で社会を築いた人たちの歩みに、人間の力強い本性を見出した」という説明がありました。これはまさに、自分が「ディストピア・ランド」というテーマを通じて改めて確認したり、表象したいことに非常に近いのではないかと感じています。先日、生まれて初めてハワイに行って、移民の方々にまつわる場所をまわったのですが、原田さんは作品制作のためにハワイに滞在され、色々な方たちにお話を聞かれたんですよね。

原田裕規(アーティスト) Photo: Kaori Nishida

原田:コロナ禍もあり、最後にハワイに行ったのは5年ほど前になりますが、ぼくがその際にお会いした日系の方たちは当時すでに90代で、お話を伺うにはギリギリのタイミングでした。二世の多くは両親がともに日本人という環境で育っていたので、学校や社会に出ていく過程で異なる言語話者と出会い、自己形成された世代です。またハワイでは真珠湾攻撃があったので、ハワイで戦争を経験した日系人は「お前たちは日本人なのか? アメリカ人なのか?」と厳しく問われ、ナショナルアイデンティティの選択を迫られるということも起こりました。

市原:その時に、母語である日本語を捨てるくらいの覚悟でアメリカの文化に適応していかざるを得なくなったと。

原田:そうですね。そしてそうした傾向は三世、四世の後続世代にも引き継がれていきました。ぼくが最も頻繁にやり取りをしているのがこの世代の方々で、すでに70代以上の方も多いのですが、戦後社会を牽引してきたのがまさに彼・彼女らです。ハワイの日系人が戦中に迫害されたことへの反動で、戦後に各自の努力により、社会的地位の高い仕事に就いていた方も多くいます。両親が日本語話者だった二世とは異なり、生まれたときから英語環境で育った三世以下の世代は英語ネイティブで、日本語と英語が混ざり合った混成語、いわゆる「ピジン英語」を話すのが苦手な方も少なくありません。戦後のハワイ社会では、パブリックな場でピジンを話すことが部分的に禁止されていたこともあり、「流暢な英語を話せること」がアメリカ人としてのアイデンティティを強化し、社会的地位の向上につながったという状況もあったようです。

市原:ハワイ移民がつくった民謡である「ホレホレ節」を聴いて、瀬戸内地方の方言に訛りのある英語が混ざっているくらいの配分だと感じたのですが、「ピジン」はどんなシーンで使われることが多かったのですか?

原田:最初のピジンは、労働者階級のビジネス言語として使われることが多かったようです。ピジンの語源は諸説あるのですが、英語の「Business」が中国語的に発音されてピジンになったとも言われています。それに対して、ハワイの日系人が用いるピジン英語は、プランテーション時代に、さまざまな国から来た労働者同士が最低限のコミュニケーションを取るために生まれた経緯がありました。そこからさらに、ハワイで生まれた二世世代になると、異なる言語話者のクラスメイトや同僚、あとは地元の友人や家族間でピジンが使われることになりました。ですので、一世世代の「労働者間のビジネス言語」というよりは、より親密な空間で用いられるようになった「私的な言語」へと変化していった経緯があります。

2. ハワイ移民の世代間ギャップ 

市原:先ほども少しお話に出ましたが、ハワイ移民の方々のことを調べていると必ず真珠湾攻撃の話が出てきます。やはりハワイ移民の方々にとっては、アイデンティティが漂白されるくらい大きな出来事だったのですね。

原田:日本で生まれ育った一世の人たちと、自分たちのルーツである日本が起こした戦争によって人生が毀損され、アイデンティティが問われる中で、その多くが「アメリカ人」として生きることを主体的に選択した二世の間には、「日本」に対する認識のズレがあったような気もしています。

市原:二世の方たちは親世代をある種反面教師にして乗り越えようという意識があったのではないかという気がしていたのですが、やはり世代間のギャップがあるのですね。

原田:「波の盆」というテレビドラマでも、真珠湾攻撃のあとに一世の親と二世の子どもが衝突する場面が描かれているのですが、「日本」をめぐる世代間ギャップが戦争によって表面化したところもあったと思います。また、日本人がハワイに渡った時期の違いも大きいかもしれません。アメリカに併合される以前は、ハワイ政府によって移民が推奨されていた時代があり、その頃は日本人もオフィシャルな斡旋を得てハワイに渡っていました。その後、アメリカ政府によって排日移民法が制定されてからは、いわゆる「写真花嫁」という結婚による「呼び寄せ移民」として渡航した人たちもいます。特に初期にハワイに渡った方たちの中には「いずれは日本に帰国する」と考えていた人も多かったようで、ハワイの日本語学校やお寺で日本の言語や文化を大切にしていたところがありました。

原田裕規「Shadowing (Suzu)」
Installation view at Museum of Japanese Emigration to Hawaii (Photo: Takuya Matsumi)

市原:強い能動性を持って国境を超える選択をしたというよりは、「ちょっと行ったろか」的なノリで移住していたのかもしれないですね。

原田:出稼ぎに行ってくるという感覚が強かったみたいです。明治期にハワイに渡った人々のインタビューを読むと、ハワイがどこにあるのかもよくわかっておらず、中にはインドの先にあると思っていた人もいたみたいです。周防大島も含む瀬戸内海文化圏の特徴は、境界をまたぐことに対するフットワークの軽さ。日本には山を中心とした文化圏があり、「閉鎖的な地方」「開放的な都会」という二項対立がありますが、これは農村的な定住型の文化圏の中で形づくられた日本観だと思うんですね。でも、瀬戸内海を中心とする海の文化圏には、身軽に島を行き来しながら暮らす非定住型の文化や歴史があって、瀬戸内海の島から大阪、江戸、九州、台湾、朝鮮半島などと、国を超えた人々の往来がごく当たり前に行われていたみたいなんです。

市原:地元である瀬戸内の人たちの少し変わった気質というのを知っているだけに、しっくり来る話ですね。

3. 私は「私自身」から逃れられない  

市原:ハワイには日本的な建築が結構あったり、日本の食文化などの影響も多く見られますよね。日本語が敵性語とされていた時代もあったそうですが、そうした感情は世代を経ることで穏やかになっていったのでしょうか?

原田:おそらく、戦後になって「日本」に対する感情が公的な場と私的な場に分かれていったのだと思っています。戦時中のハワイでは、公的な場で日本語を話しているだけで検挙される時期もあり、その空気感は戦後になってもしばらく残っていたようです。戦後「観光の島」になって、日本人が大挙してハワイ旅行に行くようになると、自分たちと顔つきの似た日系人たちに日本語で話しかけて嫌がられるという場面もよくあったようです。日系人からすると日本人は「私たちを見捨てた側」であり、彼らは戦中のつらい経験の中で「自分たちはアメリカ人であり、日本人ではない」という自覚を強めていました。とはいえ、家庭や友人間などの私的な場では、日本語混じりのピジン英語も含めて「日本的なもの」が生き残っていたようです。そういう背景もあり、作品制作のために日系人の方々にピジン英語で朗読してもらえないかとお願いをすると、最初は抵抗感を示されました。戦後のアメリカ社会では、ピジンは「英語を話せない人が話すカタコト語」「純粋な英語ではない、不純で劣った言葉」とされていた時期があり、公の場で話すことに対して抵抗感がある人も多かったようです。

市原:そうした意識があることは知りませんでした。

原田:二、三世の方たちには、日本にルーツを持つ者としてのアイデンティティと、自分たちはアメリカ人だという矛盾した意識が共存していて、アイデンティティの分裂やゆらぎがあるように感じました。しかし戦争を経験していない世代には、比較的そうした葛藤は見られなくて、ピジン言語を話せない人も多いですね。

市原:原田さんは、そうしたアイデンティティのゆらぎや、文化が断片的に散らばっているような状況に関心を持たれている印象があります。

原田裕規「Shadowing (Maiko)」
Installation view at Museum of Japanese Emigration to Hawaii (Photo: Takuya Matsumi)

原田:ぼくが取り組んでいる「シャドーイング」という映像作品のシリーズが、まさにそうした「ゆらぎ」に対峙する作品かなと思っています。これはハワイの日系アメリカ人の方がピジン英語で台本を朗読している音声をぼくがシャドーイング(復唱)し、その復唱時の表情をデジタルヒューマンにフェイストラッキングで憑依させるという作品です。この作品では、ぼくがハワイで見聞きしたことから得た内容をメッセージにしているところがあり、「私は決して『私自身』から逃れることはできない」という台詞にその実感が集約されています。実はこのフレーズはある文学作品からインスピレーションを得たもので。その小説の主人公は、若い頃の自分は何にでもなれると思ってさまざまなことに挑戦するのですが、まるで舵の曲がったボートのようにいつも同じところに戻ってしまう。あるとき、それこそが「私自身」なんだと悟るんですね。ちょうどぼくはいまこの小説の主人公と同じ35歳なのもあり、自分を重ね合わせてみました。この一節が表しているのは運命論的な世界観で、ハワイ移民の歴史に照らしてみると、世代を経ることによって国籍や言語などに大きな溝が生まれてもなお、食の好みなど、後天的に変更することが難しい事柄もあるということになります。

市原:私もこの作品を拝見しましたが、このメッセージにはかなりグッと来ました。

原田:ぼく自身、日本からオアフ島に飛び、さらに飛行機で乗り換えてマウイ島に渡り、空港から車を1時間以上走らせてやっとたどり着いたラハイナにある墓地で、柳井、岩国、広島など、地元の地名が墓石に彫られているのを数多く目にしたことがあって。その時、こんなに遠くに来たのにまるで「ふりだし」に戻ってきてしまった感じがしたんです。ぼくは、写真からCG、土着的なプロジェクトまであえて一貫した作家性を持たせず、自分から逃れるように活動してきたところがあったのですが、ラハイナまで来て不思議な感覚に陥り、「私は私自身から逃れることができない」という台詞を作品に組み込むことにしました。また周防大島での個展のタイトルにした「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」という台詞は、周防大島出身の民俗学者・宮本常一が、同じく周防大島出身の梶田富五郎という「対馬移民」の老人にインタビューした際に聞き取った言葉です。この台詞だけを取り出すと、万能感に満ちた傲慢な印象を受けるかもしれませんが、これは実際のところは、人の何倍も苦労しつつ、人間の無力さに直面し続けた老人が語った言葉なんですね。つまり実際には人間の無力さや人生のままならなさを実感しているものの、それから逃れたいと思う抵抗の意志が表れた言葉だと思うんです。

市原:良い言葉だと思い、メモをした付箋を部屋に貼っています。

原田:ハワイ移民の方たちの歩みを見ると、彼・彼女らが生きた歴史や文化を運命論的なものとして捉えることもできるし、新しい場所に行くことで新しい自分になろうとする非運命論的な価値観も感じられる。その矛盾した2つの世界観を表現したのが先ほどの「シャドーイング」の台詞であるし、どちらとも解釈できるようにしています。自分がハワイで抱いた感覚も、悟り的に「私は私自身から逃れることはできない」と思う一方で、それでもやっぱり私は私自身から逃れたいし、逃れられる気もするという想いも捨てきれない。冒頭に市原さんが出してくれた「人間の本性」という言葉は、どちらかと言うと、いまの自分から変わろうと思うというニュアンスでぼくは捉えています。

原田裕規「Shadowing (Three Self-Portraits)」
Installation view at TERRADA ART AWARD 2023 (Photo: Katsura Muramatsu)

4. 移民社会から日本のあり様を考える 

市原:「自分からの脱却」に近いことは日々の細々とした営みの中でたくさんやっているように思います。あのシャドーイングの作品は、ご自身の人生と重ね合わせていたところも大きかったのですね。原田さんのアプローチからは、ただ時代を観察して客体化していくのではなく、それを自分にまとわせていくような姿勢を感じます。

原田:それにつながる話で言うと、もともとハワイに興味を持ったのも、昔から「アメリカ」との付き合い方を考えていたことがきっかけなんです。アーティストというのはニューヨークに行きがちじゃないですか。ぼくも以前に行っていた時期があるし、いまもニューヨークがアートの中心ではあるけれど、昔ほど顕著ではなくなっていますよね。そんな中、アメリカ的なものと日本人である自分がどんな関係を持つべきなのかを考えている中で、アメリカの中で最もニューヨークから遠く、日本から近い場所としてハワイが浮かび上がってきたんです。

市原:ハワイは海を挟んだ隣国とも言えますね。

原田:はい。それに、先ほど話したようなアイデンティティのゆらぎがあるハワイの多文化社会というのは、実は戦後の日本社会や日本人にも通じるところがあると感じたんです。戦後の日本社会は、アメリカ的なものと日本的なものが混ざり合うかたちで発展してきました。ぼくは米軍基地のある岩国出身ということもあり、昔から特にそうした実感を抱いていたんですが、その傾向がより顕著なのがハワイなんですよね。だから、戦後のハワイ社会を通じて日本社会や自分自身の姿を再発見できるかもしれないという気持ちもありました。さらに最近は、色々な経緯があって「シャドーイング」に続くデジタル作品として岩国をモチーフにした「残照」というデジタルランドスケープなどもつくっています。自分自身のルーツとアートが結びつくとは今まで思っていなかったのですが。市原さんも広島出身ですよね?

原田裕規「Home Port」
Installation view at Hiroshima MOCA (Photo: Katsura Muramatsu)

市原:そうです。小学校から高校まで広島にいたので、子どもの頃から原爆資料館に連れて行かれたし、教室の本棚には必ず「はだしのゲン」が置いてありました。

原田:その空気感はぼくも感じていて、広島は原爆や戦争にまつわる議論がむしろやりにくい地域だったという印象があります。「平和」という言葉が強すぎるあまり、新しい言葉を重ねることがやりにくい感覚があったし、それは日本社会全体にも言えることだと思うんですよね。最近怖いのは、これまで言葉が重ねられてこなかったが故に、何かのきっかけで「平和」という至上命題がガラリと反転してしまいかねない空気感を覚えていることです。その先にあるのは、まさにディストピア的な世界観というか。

市原:たしかにコインの表裏のようなところはあるかもしれません。

原田:それがこれからどうなるのか興味があるし、怖くもあります。まさにそうした時代の変わり目に自分自身がいるからこそ、ハワイ社会で何が起きたのかに関心がわいたのかもしれません。市原さんがディストピアにアプローチしているのも、そうした未来を描こうとしているからなのかなと。

市原:過去に起きたディストピア的な状況に人間がどう対応してきたのかという事例だったり、血塗られた歴史みたいなものをイヤだなと思いながら調べていくことで人類の本質を認識し、その上で未来がどうなるかを考えていきたいという感覚はあります。今日お話を伺って、原田さんの制作においては時代の自画像を描くことが命題になっていることを改めて感じましたし、自分のルーツでもある周防大島周辺の特殊性についても聞くことができ、改めて面白さを感じました。原田さんの展覧会を見に行くことがますます楽しみになりました。今日はありがとうございました。

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原田裕規 個展「夢と影」
会期:2025年2月1日(土)〜 3月1日(土)
会場:ANOMALY(東京都品川区東品川1-33-10 Terrada Art Complex I 4階)
開廊時間:12:00〜18:00
休廊日:日曜日、月曜日、祝日
https://anomalytokyo.com/exhibition/yukiharada-solo_exhibition/

作品集『原田裕規:ホーム・ポート』(2025年、フィルムアート社)
https://www.filmart.co.jp/books/978-4-8459-2420-2/

モノグラフ『シャドーイング:影を追う旅』(2025年、this and that)
https://tat-pub.stores.jp/items/67ad694a1435c101fbfc7651

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Photo: Kaori Nishida

原田裕規

アーティスト

1989年山口県生まれ、広島県育ち。2016年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了。とるにたらない視覚文化をモチーフに、テクノロジーやパフォーマンスを用いて、社会や個人の本性(ほんせい)を「風景」や「自画像」のかたちで表現している。2012年に「ラッセン展」の企画でデビューし、議論喚起型のプロジェクトからその活動を開始。2019年以降は断続的にハワイに滞在し、ピジン英語に代表されるトランスナショナルな文化的モチーフに着目している。

主な個展に「夢と影」(2025年、ANOMALY)、「原田裕規:ホーム・ポート」(2024年、広島市現代美術館)、「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」(2023年、日本ハワイ移民資料館)、「KAATアトリウム映像プロジェクト vol.23 原田裕規」(2023年、KAAT 神奈川芸術劇場)、「アペルト14 原田裕規:Waiting for」(2021年、金沢21世紀美術館)など。

作品集に『シャドーイング:影を追う旅』(2025年、this and that)、『原田裕規:ホーム・ポート』(2025年、フィルムアート社)、単著に『評伝クリスチャン・ラッセン』(2023年、中央公論新社)、『とるにたらない美術』(2023年、ケンエレブックス)、編著に『ラッセンとは何だったのか?』(2013年、フィルムアート社、増補改訂版=2024年)など。2023年にTERRADA ART AWARD 2023でファイナリストに選出、神谷幸江賞を受賞。

https://www.haradayuki.com/

市原えつこ「ディストピア・ランド」

CCBTアーティスト・フェローである市原えつこが、「ディストピア」を予知し思い描く行為の逆説的な前向きさに着目し、展開する「ディストピア・ランド」。不確実な未来へのレジリエンスを得ることを目指す本プロジェクトでは、科学的リサーチや人類史を織り交ぜながら虚実の入り混じるパラレルワールドの日本像を具現化した展覧会を軸に、各分野の専門家を招いたレクチャーシリーズ、多様なワークショップを開催します。

市原えつこIchihara Etsuko

アーティスト

アーティスト。日本的な文化・習慣・信仰を独自の観点で読み解き、テクノロジーを用いて新しい切り口を示す作品を制作する。奇想天外な発想で広く楽しめる作品性と日本文化に対する独特のデザインから、世界中の多様なメディアに取り上げられている。第20回文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門優秀賞、アルスエレクトロニカで栄誉賞を受賞。近年の主な展覧会に「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」(森美術館)等。

https://etsuko-ichihara.com/