20年以上にわたり、世界の嗅覚アートシーンを牽引してきた上田麻希。CCBTの2025年度活動テーマ「これからのコモンズ」に呼応し、プロジェクト「Olfacto-Politics: The Air as a Medium(嗅覚の力学 〜メディウムとしての空気〜)」において、上田は「空気」をメディウムとして取り上げます。匂いを手がかりに、わたしたちが共有する空気とその循環を可視化し、身体で直接感じ取りながら体験する試みです。本プロジェクトは教育・リサーチ・表現という3つの柱から構成されています。
本稿は、教育フェーズとして実施した嗅覚ゼミ「SMELL LAB」の活動とその中で行ったシンポジウム「匂いが意味をもつとき〜美学×化学×デジタル嗅覚の視座から〜」についての2つのレポートの後編にあたり、シンポジウムにて行われた講演内容について触れていきます。
2025年11月15日、「匂いが意味をもつとき〜美学×化学×デジタル嗅覚の視座から〜」と題したシンポジウムが開催されました。美学の立場から嵯峨美術短期大学教授・岩﨑陽子氏、化学の立場から東京大学教授・東原和成氏、デジタル技術の立場から株式会社リコー・氏本勝也氏をお招きし、それぞれの専門領域から「匂いの意味」をめぐる講演が行われました。さらに、上田麻希を交えたクロストークも実施され、分野横断的な議論が展開されました。

匂いが意味をもつとき〜美学の視座から 岩﨑陽子
美学の立場から登壇した岩﨑陽子氏は、「匂いが意味をもつとき」を、狭義の美学にとどまらず嗅覚の感性論として捉え直しました。講演では、嗅覚が呼吸と不可分であり、一日二万回以上に及ぶ無意識的な吸気を通じて、生きることそのものに深く関与している点が強調されました。私たちは匂いを意識的に捉えることはわずかですが、その経験は層として蓄積され、都市や場所の「雰囲気」を形づくります。匂いは空間に広がり、避けることができず、自分がどこにいるのかを最も根源的に感知させる要素です。
無数に存在する匂いの中から主要なものを選び取り、関係づける行為を、岩﨑氏は「嗅覚の星座化」と呼びます。このプロセスは想像力や記憶によって補完され、人によって異なる主観性として現れ、やがてアイデンティティと結びつきます。岩﨑氏の作品「Olfactosphere」では、私的な「近香」、公的な「中香」、自然環境に由来する「遠香」という匂いの層構造が提示され、島々の香りの計測や季節の記録といった実践へと展開されています。匂いに意味を与えるとは、社会や時代の影響を受けながら、自分なりに匂いを切り出すことであり、嗅覚アートとは、視覚や聴覚ほど共有されやすいわけではない嗅覚の「余白」をつなぎ、各人の内にある匂いの星座に気づかせる営みであることが示されました。
インフォケミカルとしての香り 東原和成
東原和成氏は、「インフォケミカルとしての香り」をテーマに、匂いを情報を担う分子として捉え、人間に嗅覚コミュニケーションやフェロモンが存在するのかを科学的視点から論じました。動物界では、匂いが誘引や忌避、警戒、養育などの行動を引き起こすことが古くから知られており、カイコガの性フェロモンや魚の警報フェロモンなど、明確な物質と機能が同定されています。一方で、人間における「美しい匂い」は、哲学的な普遍性とは異なり、記憶や経験、文化に深く依存する点が指摘されました。
近年の研究では、赤ちゃんの体臭が母親との絆を促すことや、排卵期の女性の体臭が男性に心地よさやリラックス効果を与えることなど、状況証拠的にヒトの嗅覚コミュニケーションの存在が示されています。特定の匂い分子が情動や生理反応に影響を及ぼす可能性も明らかになりつつありますが、厳密な意味でのフェロモンの存在は未解明です。
東原氏は最後に、匂いを単なる悪臭として排除する対象ではなく、生物の行動や関係性を支配する「見えない化学感覚シグナル」として捉え直す重要性を強調しました。これらを科学的に可視化することは、農学の新たなミッションであるネイチャーポジティブの実現に向け、環境生態系の復興へとつながるだけでなく、人と人との関係性やウェルビーイングを支える基盤になりうると結論づけました。
機械を通じてにおいを感じる試み 氏本勝也
氏本勝也氏は、気体計測とデジタルな嗅覚をテーマに、匂いを分子レベルで捉え、リアルタイムかつ空間的に扱うための技術的可能性について講演しました。従来のガス分析装置は分子選択性と検出感度に優れる一方で大型かつ分析に時間を要し、可搬性や即時性に課題がありました。一方、ガスセンサはリアルタイム性に優れるものの分子識別能力が低く、用途が限定されてきました。
こうした課題に対し、株式会社リコーではガス分析機の小型化に注力し、FAIMS( Field Asymmetric Ion Mobility Spectrometer:非対称イオン移動度分析計)技術の社会実装を進めています。FAIMSは、気体分子をイオン化し、電界強度に依存したイオン移動度の差を利用して分子をふるい分ける技術で、ppbオーダー(10億分の1レベルのごく微量)の微量成分をリアルタイムで計測できる点が特徴です。試作段階のデバイスは、高さ約120mm、幅約220mm、奥行約160mmと小型で、持ち運びが可能なサイズ感を実現しています。この運びやすさにより、工場内外や都市空間、自然環境など、これまで計測が困難であった現場での匂いの測定が可能となりました。実際に金属リサイクル工場や石垣島での計測事例では、匂いが点ではなく地域全体の環境として分布していることが可視化され、都市や観光地における「香りの風景」の把握へと応用可能であることが示されました。
さらに氏本氏は、計測にとどまらず、香りの再構成や呈示と結びついた体験こそが「デジタル嗅覚」であると指摘しました。リアルタイム分析と香り生成を組み合わせた試みを通じて、FAIMSは時間軸と空間情報を含む匂いの記録を可能にし、今後はアートや表現領域への展開も期待されています。

シンポジウム内では、実際にFAIMSを用いたデモ計測も実施されました。デモ計測の発想の起点となったのは、上田麻希による「満員電車の中では強い体臭やさまざまな匂いが混在しているはずなのに、実際にはあまり匂いを感じないのはなぜか」という素朴な疑問でした。この問いを出発点に、会場内に簡易的なテントを設置し、来場者の協力を得て満員電車に近い状況を再現したうえで、リアルタイムの気体計測を行いました。参加者がテント内に集まるにつれて、スペクトルには明確な変化が現れ、特にアンモニア由来(疲労のストレスから出る)と考えられる青い信号の増加が確認されました。少人数では検出されなかった変化が、多人数になることで初めて可視化された点は、満員電車という特殊な環境がもつ嗅覚的特徴を示唆する結果となりました。

シンポジウムの最後にはクロストークを行い、台本のない自由な対話の中で、嗅覚をめぐる科学、アート、テクノロジーを横断した議論が展開されました。会場からの質問も交えながら、体臭や加齢臭、自己のにおい認識、文化や世代による感じ方の違いといった身近な話題から、マスキングや消臭の科学的原理、動物と人間の嗅覚の違いまで、幅広いテーマが取り上げられました。計測、知覚、記憶、表現が交差する場としての嗅覚は、今後も多様な問いを生み出し続ける領域であることが、会場全体で共有されました。
アーカイブ公開
*シンポジウムのアーカイブを限定公開しています。さらに詳しく知りたい方は、YouTubeでご覧いただけます。

上田麻希 嗅覚ゼミ「SMELL LAB」
2025年度CCBTアーティスト・フェロー上田麻希によるプロジェクト「Olfacto-Politics: The Air as a Medium(嗅覚の力学 〜メディウムとしての空気〜)」の一環として、嗅覚ゼミ「SMELL LAB」を始動。
開催日時:2025年11月8日(土)〜2026年2月末(予定)
■集中勉強会 Day1:11月8日(土)16:00-18:00
■集中勉強会 Day2:11月9日(日)14:00-18:00
■蒸留ワークショップ:11月14日(金)17:00-19:00
■シンポジウム、FAIMSデモ計測:11月15日(土)14:00-18:00
会場:シビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]







