ホーム / CCBTの活動 / 上田麻希 嗅覚ゼミ「SMELL LAB」
レポート

20年以上にわたり、世界の嗅覚アートシーンを牽引してきた上田麻希。CCBTの2025年度活動テーマ「これからのコモンズ」に呼応し、プロジェクト「Olfacto-Politics: The Air as a Medium(嗅覚の力学 〜メディウムとしての空気〜)」において、上田は「空気」をメディウムとして取り上げます。匂いを手がかりに、わたしたちが共有する空気とその循環を可視化し、身体で直接感じ取りながら体験する試みです。本プロジェクトは教育・リサーチ・表現という3つの柱から構成されています。
本稿は、「教育」フェーズにおいて実施した嗅覚ゼミ「SMELL LAB」の活動と、その一環として行ったシンポジウム「匂いが意味をもつとき〜美学×化学×デジタル嗅覚の視座から〜」での知見を市民にひらく、2つのレポートの前編にあたります。

※本イベントは、シビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]「アート・インキュベーション・プログラム」の一環として実施されました。

SMELL LAB Day 1 (2025年11月8日)

SMELL LABの1日目は、公募によって集まった16名の参加者とともに、嗅覚を意識化することから始まりました。上田は参加者に「この場所の匂いに何か気づきましたか」と問いかけ、下水の匂い、レンガと水が混ざった湿った空気、トイレ由来の匂いなど、空間に漂う要素へ注意を向けることを促します。視覚に比べ、嗅覚は意識の表層に上りにくい感覚です。しかし、意識的に向き合うことで、環境のレイヤーが立ち上がってくる。その感覚を共有する導入でした。また、嗅覚トレーニングの方法として、日々の匂い体験を記録する「Smell Diary」の有効性も紹介され、嗅覚を知識ではなく経験として蓄積していく姿勢が示されました。



続いて参加者は色分けされたグループに分かれ、試香紙に付された香料の印象を言葉にしていきます。他者と相談せず、一人ひとりが自身の感覚に従って書き出すことがルールです。用いられた香料はCalone(カローン)。マリンノートやアクアティック、ウォータリーといった表現で知られる分子ですが、ポストイットに書かれた言葉はアルコール、雨の日、レモンピール、スイカ、メロン、夏、白シャツ、石鹸、インク、紙と驚くほど多様でした。その後、グループ内で言葉を並べ、似た表現をまとめながら、小さな「嗅覚の展示」をつくり上げていきます。 


他のグループの展示を見て回る時間では、「本当に同じ匂いを嗅いだのだろうか」という声が上がるほど、参加者による匂いの表現の幅は広がっていました。最終的にはグループを越えて言葉を再編し、模造紙に整理して貼り出すことで、嗅覚表現のアーカイブが形成されました。匂いがいかに主観的であり、同時に共有や翻訳の対象となり得るか。そのプロセス自体が可視化される時間でした。



後半は、CCBTの2025年度活動テーマ「これからのコモンズ」との接続です。空気を共有資源として捉え、温室効果ガスをめぐるレクチャーが行われました。資料の配布に加え、映像を通して、CO₂(二酸化炭素)やメタンといった分子が地球環境に与える影響が紹介されます。温室効果ガスがなければ地球は火星のように冷え切ってしまうこと、反対に過剰であれば金星のような過酷な環境になること。地球の気温上昇の大部分が、わずか0.03%のCO₂濃度変化に起因しているという事実も共有されました。

また、近年とくに注目されるメタンガスについても言及がありました。CO₂と比べ、短期的には数十倍の温室効果を持つとされるメタンは、気候変動対策において重要な鍵を握る存在です。こうした科学的知見は、「匂いは有機化合物である」という前提のもと、嗅覚による翻訳の対象として提示されました。CaloneがO₃(オゾン)を想起させる香りであることも、その一例です。現実的な再現ではなく、自身の感覚を通じて抽象的に温室効果ガスを香りへと置き換える。その姿勢が上田により強調されました。


続いて、NO₂(二酸化窒素)をイメージした試作香料の試香や、温室効果ガスやPM2.5と関係する分子の紹介が行われます。参加者は各チームで一つのガスを選び、複数の香料を組み合わせて調香に挑む課題を与えられました。硫化水素のように、老朽化したインフラや事故とも結びつく分子についても触れられ、匂いが環境や社会、生活と密接に関わっていることが浮かび上がります。

初日のSMELL LABは、翌日に向けた宿題とともに締めくくられました。テーマとするガスを選び、その分子がどのような匂いとして翻訳可能かを調べてくること。嗅覚を通じて空気を捉え直す試みは、知覚と科学、想像力と社会的課題を横断する実践として、ここから本格的に動き始めました。

SMELL LAB Day 2(2025年11月9日)

SMELL LAB 2日目は、前日の宿題を振り返るところから始まりました。参加者それぞれが、調香のテーマとしてどのガスを選んだのかを共有したところ、CO₂(二酸化炭素)、CH₄(メタン)、N₂O(一酸化二窒素)、HFCs(ハイドロフルオロカーボン)、SO₂(二酸化硫黄)、NO₂(二酸化窒素)、H₂S(硫化水素)といった多様な分子が並びました。選択理由もさまざまで、環境問題への関心、矛盾を孕んだ存在としての面白さ、あるいは個人的なイメージなど、ガスという不可視の存在がすでに思考と想像力を刺激していることがうかがえました。

ここで改めて確認されたのは、匂いが感覚的・情緒的な印象にとどまるものではないという点です。私たちが匂いとして知覚しているものの正体は、分子に内包された揮発性有機化合物(VOC)が空気中に存在し、拡散し、嗅覚器官によって捉えられる現象です。本ワークショップでは、この分子レベルの存在を出発点とし、ガスという抽象的で不可視な対象を、香料の組み合わせによって知覚可能なものへと翻訳していく試みが行われました。

続いて、前日に紹介されたもの以外も含め、約50種類におよぶ香料の試香が行われます。アルファベット順に並べられた香料を一つずつ確認し、参加者は丁寧にノートを取りながら香りと向き合います。上田は「パフューマリー(調香)では、その瞬間の印象を記録することがとても大切」と強調します。後から振り返るための記録であると同時に、嗅覚の反応を言語化する訓練でもあるからです。

調香に使用する香料は、基本的に2~3種類。とくに初心者の場合は2種類が適しているとされました。香料は10%や1%など希釈率が異なり、本来はスケールで0.01g単位まで計量しますが、今回は滴数で調整します。まずは「1、1、1」と同量で混ぜ、そこからバランスを見て微調整するという、実践的な方法が共有されました。すべての香料を確認し終えた参加者から、自分の名前が書かれたボトルを手に取り、調香の準備に入ります。

途中、参加者から「オゾンの香りを作る場合は、オゾンノートを選べばよいのか」という質問が投げかけられました。これに対し上田は、「料理のように考えてほしい」と答えます。メインのフレーバーだけでなく、隠し味が重要であること。インドカレーにチョコレートを加えるように、一見関係のない要素が全体を支えることもある。その比喩は、香りを組み立てる思考を具体的に示していました。調香後は、即席の展示形式で一人ずつ発表が行われました。選んだガス、その理由、使用した香料と配合の意図が共有されます。たとえば、一酸化炭素を選んだ参加者は、「匂いのない、目に見えないガスを香りとして作る矛盾」に惹かれたと語り、Aldehyde C-12 LauricとAldehyde C-12 MNAを同量、そこにMentholをアクセントとして加えました。二酸化炭素を選んだ参加者は、悪者として語られがちなイメージを反転させ、植物にとって必要不可欠な存在として「良い匂い」にしたいと考え、FloralozoneやDiphenyl Oxide、Camphorなどを組み合わせています。

メタンをテーマにした作品では、「温暖化の匂いがした」という直感的なコメントとともに、IndoleやPatchouli、Nitrile系香料、Floralozoneが用いられました。一酸化二窒素では、陸・海・空を横断するイメージや医療用ガスとしての側面が意識され、VetiverやDMS、Melonalなどが選ばれています。ハイドロフルオロカーボンは「マシンの香り」として、二酸化窒素は公害の記憶を呼び起こすものとして、硫化水素は宗教性も含んだ「シリアスな匂い」として構成されました。こうして生まれたすべてのフォーミュラ(香りの処方)はアーカイブされ、今後、上田の展示の一部として発表される予定です。
この2日目は、ガスという科学的対象を、嗅覚と言語、そして個人的な感覚を通じて翻訳する実践の場となりました。不可視で抽象的な存在を、香りとして立ち上げること。その行為自体が、環境と身体、知識と感覚を結び直すプロセスであることが、参加者一人ひとりの表現から浮かび上がってきます。

翌週のSMELL LABでは、蒸留をテーマにしたワークショップが予定されました。空気から液体へ、分子を集める行為を通じて、嗅覚と環境の関係はさらに別の相へと進んでいきます。

SMELL LAB Day 3(2025年11月14日)

SMELL LABの3日目は、蒸留をテーマにしたハンズオン・ワークショップが行われました。この日は、参加者それぞれが「渋谷のにおい」を手がかりに素材を持ち寄り、それらを蒸留することで、街の記憶や環境を嗅覚的に抽出する試みが行われました。目に見えない都市の層を、液体として立ち上げる実践の一日です。

はじめに、各自が持参した素材についてプレゼンテーションが行われました。東京の外気を吸った銀杏は、東京都のシンボルとしての意味を帯びた存在です。スクランブル交差点のアスファルトや横断歩道、スーツケースのタイヤは、移動と摩耗の匂いとして語られました。デザインスクール由来の木屑、6000年前には海辺だった渋谷を想起させるアサリと貝塚の記憶、明治神宮の土。街路樹の柿や楠、コーヒー文化の広がりを象徴する豆、情報過多な都市を象徴する粉砕されたパソコンの部品、ストロベリーシロップとアブサンによる感情の旅、消費社会を想起させるバッテリーや菓子、そして渋谷で拾われた鯛焼きのゴミまで、素材は多岐にわたります。それぞれの「渋谷」は、時間、記憶、文化、経済と結びついた複合的な香りとして提示されました。

蒸留は、主に「ティンクチャー・メソッド(アルコール浸漬法)」で行われました。素材をコットンのお茶パックに入れたのち、耐熱プラスチックバッグに収め、エタノールを加えて60度で約1時間加熱します。途中、30分ほどで試香し、香りの変化を確認しながら微調整するという、嗅覚に基づいた判断が重視されました。抽出後は角を切って液体を注ぎ、コーヒーフィルターで濾過します。梅酒のように時間をかけて香りを移す、家庭的でありながら科学的な方法です。

一方、パソコン部品を素材とした参加者は、水蒸気蒸留法を応用した方法に挑戦しました。蒸留の過程で発生する水蒸気によって匂い成分を揮発させ、それを料理用の油に吸着させる手法です。油は水よりも香りを穏やかに保持し、持続性にも優れるため、金属的で刺激の強い素材を扱う上で有効だと考えられました。香りが本当に抽出できるのか不安もありましたが、結果として金属的なニュアンスが油にしっかりと移り、見事に成功しました。水と油という異なる媒体による香りの質の違いも、参加者にとって重要な発見となりました。

蒸留の待ち時間には、もう一つのタスクとして「匂いのマッピング」が行われました。地図の上にポストイットを使って、素材に対応する場所や記憶を書き込み、渋谷の嗅覚的地図を共同で描いていきます。街を歩くことで得られる匂いの断片が、空間情報と結びつき、共有されていくプロセスです。

完成した液体はボトルに分けられ、名前と素材名を書いたラベルを貼って仕上げられました。一部は持ち帰り用として配布され、残りはアーカイブとして保存し、今後の上田麻希の展示や翌日のシンポジウムでの体験に用いられる予定です。参加者には長期保存のための方法として、アルミホイルで包み冷蔵保存することも共有されました。

本ワークショップについては東京という多文化・多言語の環境を背景に、共通語として英語を用いました。実施後、上田麻希はこの取り組みについて「英語に不慣れな参加者も見受けられましたが、3~4人でランダムに組むグループワークを前提としたことで、匂いという非言語的な対象を介して自然に会話が生まれました。その結果、最終日のプレゼンテーションでは、参加者それぞれが自信をもって香りについて語る姿が見られ、英語による表現力の変化も確認できた。」と語りました。

こうしてSMELL LABのハンズオンは最終日を迎えました。街の空気、個人の記憶、素材の物質性が交差し、渋谷という都市が嗅覚を通じて再構成される三日間でした。

photo: Saito Junpei

上田麻希 嗅覚ゼミ「SMELL LAB」

2025年度CCBTアーティスト・フェロー上田麻希によるプロジェクト「Olfacto-Politics: The Air as a Medium(嗅覚の力学 〜メディウムとしての空気〜)」の一環として、嗅覚ゼミ「SMELL LAB」を始動。

開催日時:2025年11月8日(土)〜2026年2月末(予定)
■集中勉強会 Day1:11月8日(土)16:00-18:00
■集中勉強会 Day2:11月9日(日)14:00-18:00

■蒸留ワークショップ:11月14日(金)17:00-19:00
■シンポジウムFAIMSデモ計測:11月15日(土)14:00-18:00 
会場:シビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]

楠尚子Kusunoki Naoko

調香師、嗅覚アーティスト

大学で国際政治とグラフィックデザインを学んだ後、大学院にてコンテンポラリーアートにおける嗅覚表現を研究。香りを芸術の領域でいかに位置づけ、表現し得るかを探究している。既製品に依存せず調香を行う専門ブランド「YOUR EXCLUSIVE」を創設し、実践と研究を往還しながら活動を展開。展覧会においては香りの創作のみならず、多様なメディアを通じて嗅覚の可能性を提示している。東京と京都を拠点に活動。ラリー・シャイナー著『においの芸術』(2025年、晃洋書房)翻訳者。

上田麻希Ueda Maki

嗅覚アーティスト

2005年以来、嗅覚とアートの融合を試み、匂いをマテリアルとした作品を発表。欧米の嗅覚アート界の先駆者的アーティストのひとりとなる。2009年よりオランダ王立美術大学など世界各地にて教鞭を取り、多くの嗅覚アーティストを輩出。世界的な嗅覚アートの殿堂、アート・アンド・オルファクション・アワード・エキスペリメンタル・カテゴリーに5回連続ノミネート。2022年には最優秀賞を受賞。令和6年度文化庁長官表彰。現在は石垣島に嗅覚アート研究所を構え、嗅覚教育や嗅覚ツーリズムに取り組む傍ら、世界各地で展示やワークショップを展開する。