
[‘劇で’,’あって’,’ほしい’,’:一つの劇’]
メンバー:
コウ カイン、シン カギ、Shion Kim、Luna
本作品は、ガートルード・スタインによる『劇であってほしい:一つの劇』を再構成したものである。
言葉そのものに焦点を当てた本戯曲の特徴を踏まえて、コードによりランダムにテキストを組み替えることで、コンテクストからの解放を試みた。それにより読み手は「上演される身体」となる。
同時に、テクストと向き合うプロセスにおける内的世界に注目し、「自己との対話」を表現した。それはすなわち、約100年前の本戯曲に対しての、現代に生きる我々の語り直しである。
VR、映像、サウンドは身体と同期することで内的世界をより有機的に立ち上がらせ、自他の境界は曖昧になっていく。
Drunk Theatre
メンバー:
蟻塚唯衣、加藤野愛、中橋侑里、廣瀬一穂、宮田真理子
テクノロジーはわたしたちに内在する狂いを脱臭し、シラフ / soberにするものではなく、わたしたちをこれまでとはまったく異なる狂気の世界へと転移させた。真にシラフな場などもはや存在せず、いわばわたしたちは常に「酔い」の状態にある。
パフォーマーは、機械に向けた動作を、舞台上でサイクルを描きながら増幅させていく。そして、「ゲロ」を吐き続けている。そのゲロは、合理的なまなざしでは掬い取れない、わたしたちの中にうごめく言葉にしようもない何かである。それが吐瀉し続けられる劇場は、パフォーマー、観客、そして機械によって織り上げられる「場酔い」の空間でありながら、どこかゲロという汚物が崇拝されるユートピア的空間として立ち上がる。
リプレイ
メンバー:
上野森爾、鈴木調、藤中康輝
ガートルード・スタインが1922年に発表した会話劇『劇であってほしい:一つの劇』を原案として、パフォーマンスを上演。15分の上演時間のうち前半と後半で同一の内容の映像を二度繰り返す。朗読音声、モノマネ、電子音響、カラオケ字幕、そして副音声によって構成される。スタインによる原文(英語)と複数の翻訳パターン(日本語)、演者同士の舞台裏の関係性(「三人」であること)、あるいは上演にあたって何らかのの口実ーーたとえば、いま書かれているこのテクストのようなーーが要求される「緊張」を畳み込んだ語り、すなわち騙りを実演する。
生きとし生けるものたちの陣取り合戦
メンバー:
石丸めぐみ、岩下拓海、横山豪
サッカーの構造を即興的な舞台表現に転用した無声のパフォーマンス。一人のプレイヤーの瞬発的な判断に応じて、複数のプレイヤーの配置が絶えず変化し、やがて見えないピッチが立ち上がる。
上演は、ルールと勝敗に基づいて動く「スポーツ的」な場面と、構成と演出によって形成される「ダンス的」な場面から成る。二つの場面は連続して上演され、観客は演者の行為が計画されたものなのか偶発的なものなのかを判別できなくなる。
さらに、ウェアラブルデバイスで読み取ったパフォーマーのバイタルデータをAIが解析し、即興的に実況を生成する。演算は正確でありながら、出力される言葉はどこか不正確で、しばしば笑いを誘う。同時に、通常の実況が想像のうえでしか触れられなかったプレイヤーの〈内側〉を直接的に参照しているため、AIによるこの実況は、表面上は素朴な実況らしさの再現でありながら、どこかグロテスクな質感を帯びている。
洪水または光景または最寄り天国
メンバー:
姥凪沙、内田颯太、小林遼、村田実莉、矢木奏
「夜が続く限り、彼らは幻想を抱くのよ。でも明日、恐ろしい光の中、空に届く一面の海と、小さくなった山々を目にしたら、彼らは洞窟の中には戻らないんだわ。彼らは見つめるでしょう。彼らは頭から袋をかぶり、見つめるでしょう。」
「君は彼らを、野生の獣たちと混同しているよ。死すべき者は誰ひとり、自分が死んでいくことが理解できず、死を見つめることができない。必要なのは、走ること、考えること、言うこと。残された者たちと話をすることさ。」
――持田睦「パヴェーゼ『レウコとの対話』試訳」
Makoto Mochida|note, 2025年
戯曲『レウコとの対話』から思い出されたのは、メンバーのひとりウバがお風呂で溺れた時に見えた、彼女自身の個人的な光景だった。ウバの身体には障害があるが、溺れた時に見た彼女の身体は「健常者の身体」をしていた。ウバから見た「健常者の身体」はバーチャルだ。同時に「健常者」から見たウバの身体もバーチャルだ。HMD(ヘッドマウントディスプレイ)が視界を覆い、「ないもの」を手に入れようとする、健常者が“不自由さ”を求めて発展してきた技術への応答を、お風呂場で起こったアクシデントを戯曲から記憶を辿り再現することにした。
rental name
メンバー:
遠藤友咲, 中山皓仁, 遅 亦周
名前を他者や架空のキャラクターに貸すことによって、私の存在にぴたりと貼りついた名前を緩め、引き剥がしていく。
本来、自己とは多層性を持ち、不可知な部分を孕んだものであるはずだ。しかし、現代社会においては戸籍に登録された名前というコードによって、同一的な自己であること、そして常に人間であることーー世界や自己の存在も疑わず、一秒も欠かさず社会に属することーーを強く要請されている。
本作品にあるのは、他者が「私の名前は遠藤友咲です」と言うだけのきわめて単純なフィクションである。しかし、その名前が私に返ってくるとき、そのコードには一体どんなものがこびりついているのだろうか。
Photo by Shunsuke Watanabe